春の里山 大龍寺 若杉山遺跡  2014/03/03
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 大龍寺 国史跡大龍寺道(阿波遍路道)を行く -

今日は家内が県立中央病院へ膝の定期検診に出かけた。

昼過ぎに帰ってきたが今日は何処にも出かけたくないと言う。

天気もスッキリしないが、たまには歩かないと調子が悪くなってしまう。

大龍寺への参道が国史跡阿波遍路道として指定されてから歩いていない。

一寸歩いてこようかな。



那賀川の水は何時も青く澄んでいて綺麗だ。

この岩は地元では、「蛇石(じゃいし)」と呼ばれているそうだ。

加茂谷元気なまちづくり会 の原さん、森岡さんに教えて戴きました。

大井のお地蔵様を過ぎて那賀川に掛かる水井橋を渡る。

直ぐに広場があり駐車する。



若杉谷川に掛かる橋の手前から阿波遍路道の看板を右に曲がる。

ここから軽四より大きな車は進入禁止となっている。

この看板は昨年、大龍寺から龍の窟への「いわやみち」が国史跡として追加指定された時に設立されたようだ。



大龍寺までは3.8㎞

13時18分出発。

今日の目的の一つ若杉山遺跡の標識がある。



若杉谷川への斜面も右の石垣の上も杉が植林されている。

まだ若い。

ついこの前まで石垣の上は畑だったのだろう。



舗装路をひたすら歩いて行く。

〇四丁と彫られた丁石があるがお地蔵さんは剥げ落ちている。



道の山側の崖は岩壁となっている。

石灰岩なのか大きな穴が所々に開いている。

若杉谷川は渓流となり滝のように流れ落ちている。



四国の道に良くある東屋とコンクリートのテーブルと椅子があるが苔むして最近は利用されていないようだ。



辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡の案内板がある。

魏志倭人伝には「其山有丹」(邪馬台国には丹が生産されていた)と書かれている。

弥生時代後期から古墳時代初期に日本で丹(辰砂)を採掘していたのは若杉山遺跡だけだったと言われている。

このことが邪馬台国=阿波説の大きなよりどころとなっている。

しかし肝心の遺跡が何処にあるのか解らない。



若杉谷川の両側は立派な石垣が何段にも連なりミカン畑として開墾されたことが解る。

今は既に放棄されて杉畑となっている。

このミカン畑を開墾する時に遺跡が発見されたそうなのできっとこの石垣の上に遺跡はあるのだろう。



東屋の反対側の崖下には弘法大師像がほほえんでいる。



弘法大師像の後の岩壁には鍾乳洞のような波浪跡のような穴が沢山開いている。



中を覗くと深い洞窟がいくつにも別れて奥に続いている。

大勢が入ったらしく踏み込まれた跡が付いている。

この穴は採掘跡なのだろうか?

若杉山遺跡は全国的にも珍しい遺跡だが、訳あって国や県の指定遺跡となっていないそうだ。

(この遺跡を認めると邪馬台国=阿波説を認めることになる?)

よく調べると、平成7年に神山町神領で弥生時代の辰砂採掘の坑道跡が発見されている。

(7.7.4日経)

神山町神領の通称丹生山(におやま)で、古代に朱の原料として珍重された辰砂鉱石の採掘坑道跡とみられる穴が見つかった。

付近にその時代の朱の製造センターが存在し各地に配られていたのではないかと推定できる。

名東遺跡や矢野遺跡と共に注目すべき遺跡だと思われる。



遍路札に励まされて先を急ぐ。

それにしても戦後開墾されたというミカン畑は大規模だ。



若杉谷川に沿って登って行く。



十四丁、十五丁の丁石がある。

丁石には寄進者の住所と名前が刻まれている。



水田の跡があり石の鳥居と社跡もある。

社は消失している。

鳥居には明治7年と刻まれている。

少し行くとつい最近まで住んでいたような小屋跡がある。



十七丁の丁石を過ぎると集落跡に着く。

此処が若杉集落跡だろうか。

地図を見るとこの舗装路の向こうにも参拝路があるようだ。

13時50分

道路の左下には棚田があるが現在でも稲が栽培されているのだろうか。



若杉集落は古い集落だったようで山間部としては立派な墓が沢山残っている。

此処から右へと疑似木の階段道が続く。



ここから国史跡として指定されている「阿波遍路道」

此処で標高170m位。

大龍寺は標高505m。

これから1.6㎞で335mの急坂を登ることになる。



二十一丁の丁石

舟形丁石と言うらしい。



疑似木の階段は足に応える。

大きな荷物を背負った男性の遍路が重い足取りで登っている。

私も汗ビッショリになる。



大京原の土佐屋の久右衛門さんや善治〇さんが寄進した丁石がいくつかある。

大京原に大店があったのだろうか。



崩落跡に鉄製の橋が架かっている。



二十五丁を過ぎると平坦な道となる。



車道に出る。

平等寺へと下る道がある。

最近整備された「かも道」も此処で合流するようだ。

六地蔵?が有るが半分は地蔵が無くて石が祀られている。



右の石柱の右側には「右かも道」と彫られているように見える。



この石柱は文政6年に富岡町の大和屋次郎兵衛と刻まれている。

二十七丁の丁石がある。

普通丁石は残りの丁数を示しているがこの遍路道はお寺に近づく程数字が多くなる。

初めてだと後どの位で着くかが解らない。



急な舗装路を上っていくが冷たい風が吹いて一気に汗が引く。

山門へと階段を上る。



仁王像は運慶作だと言うが酷く痛んでいて巨神兵のようですごみがある。



やっと大龍寺に着く

14時25分



護摩堂には天女が彫られている。



龍天井は何十年も前と変わらず見事だ。



黄色い袈裟を着た僧に挨拶してお詣りしていく。



立派な鐘楼で一つ鐘を撞く



安曇野でよく見る道祖神が木に彫られていた。



フクロウの四角い窓の向こうに鶴林寺



大師堂でおみくじを引く。

おみくじにはお守りが入っていた。



大鳴門橋が見える。



ロープウェイで登ってきたのか参拝者が多い



虚空蔵菩薩の祀られている本堂にお詣り



ロープウェイ駅から南舎心嶽と標高618mの弥山を望む。

大龍寺山に登ったと言うためには彼処まで行かなければならないが今日はパス。



文政や享和の石碑が残っている。



境内のねじ曲がった地層はこの山が海底から捻りあげられたことを示している。



後はひたすら遍路道を下る。

久能家の42代の墓がある。

42代と言えば1000年近く前から続いている家系となる。

今日は邪馬台国は阿波だったとの諸説に良く出てくる若杉山遺跡を訪ねたが良く解らなかった。

ただ、この地や丹生谷地区には水銀の産出地が多く古代の歴史に深く関わっているらしいことは感じる事が出来た。





里山倶楽部四国編 

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